文由閣だより

2017年07月04日

@文由閣 vol.4

余白の効用

 文由閣の周囲には、在来種を植え付けているマット状の緑地帯があり、二年目の冬を迎える昨年の十一月には、大胆に刈り込みを行った。当然、冬の間は枯れており、また落葉広葉樹であるモミジ類も葉を落としている。仕事をしている手を休め、ふと見上げた先には、自動車の走り去る姿を目に留め、また時々道行く人と視線が交差する。大きなガラス窓から差し込み西日の暖かさに助けられた日も幾日かありはしたが、普通は冬の曇天と同じく、色合いが少ない風景が広がっている。目につく色合いと云えば、信号が変わる時の青と赤と黄色、そして煉瓦色をした本院の奥に壁のように聳え立つマンションの外壁だけである。

 冬が過ぎ、出勤途中に目にした新宿南口に新しく植えられたソメイヨシノが満開の花びらをつけた、季節外れの暖かさが幾日が続いたある日、文由閣の周りでもちょっとした変化が現れていた。風に飛ばされたのか、それとも誰かが捨てたのか、菓子パンの袋の脇に小さな緑色の芽が出ていたのだ。本院のシダレザクラの蕾もまだ膨らんでいない季節だったので、少しばかり狼狽したが、それよりも今年も芽が出るかどうか心配していた頃合いだったので、まずはそっと胸を撫で下ろした。それは一年目の夏はとにかく水撒きに精を出し、枯れないように愛情を降り注いだが、二年目の夏は専門家からのアドバイスのもと、水撒きをほぼしない状態だったからである。それが如実に現れたのが、文由閣二階に設置しているプランターに植えられた植物達だった。そこには入口の左右に同じ大きさのプランターを置いたのだが、屋根の影響で雨が吹き込む側と吹き込まない側に分かれてしまい、結果一方が枯れてしまったのである。現在はプランターだけが放置されている状態になっている。そんなこともあり、芽が出るか、それとも枯れてしまい芽が出ないのか心配していたのである。

 街のいたる所のサクラ類も大きな呼吸をするようにできるだけ大輪の花をつけ、それでもあっという間に散っていく間も、モミジの葉はやっと枝の先々から現れ始めた程度であった。文由閣に植えられているモミジ類は、イロハモミジ、コハウチワカエデ、ノムラモミジの三種が植わっている。もとともは福島県石川町の種苗から運んだものであるが、その広大な種苗の中の場所も違えば、土壌も違い、それぞれの樹木の特性もあり、先天的な違いがまずはある。そして文由閣に植えられてからは日照、雨量、排気ガスの影響などの後天的影響がある。それら先天的、後天的な影響の組み合わせで今のモミジが成長しているのある。だからこそ当然、葉をつける時期も違えば色合いも違い、また成長スピードも違う訳で、植物を愛でる醍醐味は実はこのようなものだろうと一人合点するのである。

 そして季節は五月、現在はどの樹木もそしてマット状の在来種も葉を付けて、ジャングル状態になってしまっているではないか。あれだけ芽が出るのが恋しくて、葉が出てきたときの感動はどこへ行ったのか。歩道に大きくはみ出しているモミジの枝が通行人の邪魔になっているのではないかと心配し、またこれはあきらめるしかないのであるが、非常に強い外来種が在来種を駆逐するのではないかと心配している状態である。「冬の枯れている状態が恋しい」とは言わないが、人間の、いやいや自分自身の短絡的な気持ちの変化にただただ嫌気がしているだけだというのが正直なところである。

 そこで試しに、一、二本の枝を落とし、枯れている茎を取り除き、認識できる範囲の外来種を根ごと除去し、自らの席に着く。そうしてその場所を一目見、二目見ると除去した前との印象がだいぶ変わっていることに気付くのである。そうすると他の場所も触りたくなってくる。比較的曇り空の日を選んで、汗をかくこと半日、それなりの姿になってくるではないか。高いところと決断ができない場所は専門家に任せるとして、自分なりの「手入れ」を終わらせて気づいたこと、それは「余白」のことである。もしかしたら「余裕」ということにも通じるのかもしれない。物事、どんなものでも目一杯にしてしまい満足している風潮が、特に最近は多いのでないか。例えばスマホ。電車の中でも歩いていても、スマホを触り、見て、音楽を聴いている。スマホを見ている時の視界は、ほぼスマホの大きさである。その周辺にある物、起きている状況が見えず、またイヤホンをしていると同じ状況となる。それは「余白がない」ということができないだろうか。そして「余裕がない」ということに発展するのではないだろうか。周りが見えない、そして聴こえない。もしそれが現代社会だと、割り切って肯定するのは簡単だが、その「余裕のなさ」がもしかしたら様々な事象に少なからず影響しているのであれば、文由閣の周りの植物同様、ちょっとした手入れが必要だと、大きな窓ガラスを見ながら考える。そしてその効用が何かと問われたら、それはちょっとした気持ちの変化としか答えられない自分がいる。あるミュージシャンがラジオで云っていた言葉をふと思い出す。「スマホを忘れてしまったある日。ふと電車の窓ガラスを見ていると、きれいな夕陽が西の空に静かに沈むところだった。夕陽を見たのはどれくらい昔だっただろう」と。

涼仁拝