文由閣だより

2017年09月06日

@文由閣 vol.5

夏の記憶

 長崎で育った私にとっての夏の記憶は、海のきらめきと8月9日に市内に響くわたるサイレンの音、そして蚊帳の中を流れるゆったりとした涼風といえる。小さい頃は、よく父に連れられて海水浴に行った。そして中学生以降は、友達同士でバスに揺られ、家からだいぶ離れた野母崎まで出かけた。野母崎に隣接している脇岬海水浴場は長崎半島の南端に位置し、僕たちにとっては夏の思い出の場所の一つだ。部活の早朝練習の後、小さなバッグに水着とバスタオルだけ入れて、向かえばそこは天国だ。ひと泳ぎした後は、早起きした分の時間を取り戻すように、砂浜で眠りに落ちた。その頃は日焼けを心配することは皆無だったので、砂浜にそのまま横たわり、タオルを顔にかけてジリジリ照りつける太陽をまともに受けても平気だった。時折女の子の嬌声が聞こえると目蓋を開けて、横目でチラリと確認などしたが、そんなことより眠さの方が勝っていたのか、それとも声をかける勇気がなかったのか、判然とはしない頭でまたもや眠りについた。そこでの友人との会話がどんなものだったのか、あまり記憶にないが、それはたわいもない事であることは間違いあるまい。今後の人生に待ち受けている、厳しさや苦しさなど、そんなことを心配することもない穏やかな時間が流れていた。海の家を借りるお金もないので、トイレ横に設置してある冷水シャワーを浴びて砂と海水だけを洗い流し、水着を着替えもせず、短パンだけ掃いてTシャツを着れば、これで帰り支度は終了。帰りのバスの時間を待つ間、瓶のコカ・コーラをみんなで回し飲みして、バスに乗るやみんなで終点まで爆睡する、そんなことが日常に繰り広げられていた。

 8月9日は、登校日だった。長崎市内の小中高校はみんなそうだったと思う。11時2分には市内中に響くわたるサイレンで、1分間の黙祷を捧げた。私にとってこれは当たり前だった。今でも9日になると、「あ、9日だ」と思い至る。長崎で育った私の一つの原点だと、今でも思っている。

 私が生まれ育った家にはクーラーがなかった。夏は全部の窓を開け放ち、扇風機を回していた。当然、蚊が入ってくるので、いつも蚊取り線香を焚いていた。グルグル巻きの蚊取り線香のあの香りも夏の記憶の一つだろう。夜は蚊帳を吊り、家族全員で寝ていた。母からは蚊帳に入るとき必ず、「シュっと入りなさい」と言われ続けていた。今、蚊帳を吊る家が東京にあるのだろうか? 若い人たちは、蚊帳自体を知らないのであろう。窓を開け放って寝るなんて、なんて平和だったんだろうか。

 昭和40年代から50年代の片田舎のそんな夏の記憶が思い出されたのには、ちょっとした理由がある。7月24日より3泊4日で東京の子どもたちを東日本大震災の被害があった気仙沼に連れて行き、地元の子どもたちとの交流イベントに参加したからだ。今年で2回目となる今回は、地元の子どもたちと併せて総勢23名のキャンプを行うことが、大きな目的となっている。

 東京からは、小学4年生男女3名と、2年生の1名の計4名(引率者2名)で、24日新幹線で一ノ関まで向かい、車で気仙沼市内に向った。到着初日は、大雨にあったが、2日目からは晴天に恵まれた。自分たちのことは自分たちでを基本に、昼食の準備など親元を離れた子供たちは、地元NPO法人「浜わらす」のプログラムに参加し、田んぼの草取りや沢あそびなど、普段東京では体験することができない「田舎」のを満喫していた。

 3日目はメインイベントである地元の子どもたちとのキャンプだ。朝から協力してテント(4張)を張ったり、火起こしから始まる昼食の準備に取り掛かったりでてんやわんやの大騒ぎが続いた。火起こしは、なんと地元の女の子が「虫眼鏡」で、火を起こしたではないか。理科の実験さながらの出来事で、みんな大喜びだった。おいしくカレーを食べた後は、いよいよみんな海に出かけて海遊びをするイベントだ。「浜わらす」の大きな活動の趣旨として、「海にくらす子供たちを、海に取り戻す」というのがある。震災以来、物理的にも精神的にも海に近づくことができない状態になってしまった。そんな子供たちが本当の海の楽しさ、そして厳しさを学ぶ場としての活動が、この「浜わらす」の活動と言える。約40分かけて海にたどり着いた。これも震災の教訓で、車に乗らずに自分の足で歩くことにより、海との距離を体感することができるようになる。ライフジャケットを着て、いよいよ海に入りだした子供たちは、その冷たさにまずは驚く。東北の海はやはり冷たいのだ。ライフジャケットを来たままなので、基本「浮く」のだが、これが怖い子供たちもいて「浮く」練習から始める。海の中では海の楽しさを学ぶ。ここはプールではないのである。波はあるし、その波も一定ではない。そのようなことを「体験」として学んでいく。集団での学習が終了すると、あとは自由時間。ハンドボードと呼ばれる、小型のボードで波に乗る子、大人とじゃれあう子、ひたすら泳いでいる子など様々で、有意義な時間を子供たちは過ごしていた。そして終わる時間が来ると、「まだ、いたーい」という合唱が始まるが、時間厳守も重要な約束事。みんな海水をタンクからの真水で洗い流して、そのままの格好で来た道を帰っていった。そして東京の子どもたちと地元の子どもたちが一緒になって、歌を大声で歌いながら未だにある仮設住宅の横を歩いている姿を見て、少しは心の交流があったかなの実感することができた。そして、その時、そういえば私も子供時代、シチュエーションは違えでもこんな風にして、水着を着たまま家に帰っていたなと、ふと思い出した。

 子供時代の夏の記憶が、他の季節の記憶よりも鮮明に覚えているのは何故だろう。現代の子どもたちも、それは同じなのだろうか。子どもたちがテントの中で何を語り合ったのか、それは聞いていない。でも子供たちは、何かを話しているはずだ。それはきっとたわいもない事であるのは間違いない、私自身がそうだったように。でも、それが夏の記憶となっていくのだろう。

涼仁拝