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文由閣だより

@文由閣 vol.9

西日本豪雨被害支援の報告

 

 西日本豪雨(気象庁発表の正式名称は、「平成三十年七月豪雨」)は、平成三十年六月下旬から七月上旬にかけて、台風七号と同時にその時に停滞していた梅雨前線により、主に西日本各地に甚大な被害をもたらしました。被害発生以来、現在(八月中旬時点)でも報道により伝えられている通り、岡山県、広島県、愛媛県の一部地域では、この酷暑の中、避難所生活を余儀なくされている被災者も多くおり、また断水が続いている地域も残っています。各レベルの行政を中心に、自衛隊、ボランティア団体、そして一般のボランティアによる支援活動が続いている状況ですが、東長寺においても支援活動を開始。七月十三日の盂蘭盆会法要において義援金の募集を実施、参列者のご厚意により多くの義援金が集まりました。この義援金の送り先を考えていた折り、愛媛県大洲市の西滝寺副住職、福村泰史師と連絡がとれ、周辺の被害状況が確認でき、西滝寺様を通して義援金を当地に送ることが決まりました。福村師は平成十九年より本年まで約十一年、東長寺にお勤めいただいた僧侶です。ご存知の方も、大勢いらっしゃるかと思います。この義援金を持参するとともに、当地の状況確認と支援を行うために、七月下旬に愛媛県に入りました。

  • 活動箇所

愛媛県大洲市、西予市、宇和島市

  • 被害状況

 今回の災害は大きく二つの被害に分かれます。一つが、河川の氾濫による浸水被害と、もう一つが斜面の崩落による土砂崩れ被害です。

 愛媛県内には、四国山地西端を源流とする肱川が南から北に流れています。肱川は過去に何度が氾濫したことがあり、近年では、一九九五年、二〇〇四年と続けて氾濫していますが、今回の氾濫は、過去の氾濫にも増して被害が拡大したようです。それは、上流部にある野村ダム、中流部にある鹿野川ダムのいずれもが、貯水量が飽和し、流入量と同量を放流した結果、肱川の各所で氾濫がおきた模様であり、特に大洲市街地では、概算で四六〇〇世帯の家屋に浸水した記録となっています。今回の放流は、いくつかの問題点が指摘されています。通常ダムの放流は、下流域に甚大な被害を防ぐため、防災無線による放流アナウンスが流されます。実際、国土交通省四国整備局は、サイレン、および放流量増加のアナウンスを流したようですが、住民の話しによると「聞こえなかった」という声が圧倒的に多かったようです。それというのも、当時は激しい雨が降り続いており、その豪雨の音でサイレンやアナウンスがかき消されていたようです。また整備局より、大洲市当該担当部署にも同様のホットラインを送ったようですが、市側は住民へのアナウンスをしなかったようです。記録的豪雨という自然災害ではあるものの、一部人災とでも言えるような事態が現地ではあったようです。視察中ある住民の方の話しによると、鹿野川ダムの安全放流量は、通常六〇〇トン/秒のようですが、アナウンスが聞こえたときは、「相当量」という表現で、「どのくらい流れてくるか分らなかった、きちんとした数量を言ってもらえると、経験的に分かったのに」と仰っていました。実際の放流量は、三六〇〇トン/秒で、通常の六倍だったようです。今後の防災無線の活用やアナウンス方法など検証すべき点は多いようです。

 斜面の崩落被害は、宇和島市に集中しています。皆さまもご存知のように、宇和島は斜面地を利用したみかん栽培がさかんな地域です。急峻な斜面地にみかんの木が植わっている姿は壮観です。この斜面地が至る所崩落していました。宇和島市吉田町は、宇和島市街地の北側に位置し、宇和海に面した地区です。この地区の西側は半島になっており、海岸線まで斜面が迫っています。その斜面が大規模、小規模に土砂崩れにあっており、一部は海まで流れ込んでいる状況でした。この地区は現在でも一部断水が続いており、飲料水は自衛隊による給水、生活用水は地区ごとに設置されている水槽よりの汲みだしに頼っている状態です。またお風呂は、吉田公民館に設置されている「自衛隊風呂」が活用されています。発災以来、一カ月が経っているにも関わらず、水が出ない状況は、被災者の心の問題に大きく関わってきます。避難所で、または各所で一番困ったこと、困っていることをヒアリングすると異口同音に「水」の問題をみなさん挙げられます。生存の、そして生理現象に必要な水の問題は災害という場面においては、一番重要であることが分りました。

  • 支援活動

 今回は短期間の活動だったため、大きな支援活動はできませんでしたが、シャンティ国際ボランティア会(以下、SVA)の活動を一部支援いたしました。西予市野村町の野村小学校に開設された避難所において、傾聴カフェを開き、被災者に冷たい飲み物、暖かい飲み物の提供と傾聴のボランティア活動を行いました。この避難所には約七十名の被災者が避難していましたが、小学校の体育館というプライバシーがない空間での避難生活は、たとえ段ボールによる仕切りがあるにせよストレスが溜まるのは当然です。被災者同士は、同じ境遇なので、愚痴も云えません。その中に、第三者であるボランティアが「話を聴く」だけでも、ちょっとしたストレスの軽減になるようです。私が行った日は、たまたま高校野球の愛媛県大会決勝があった日だったので、男性とは野球の話しで盛り上がりました。女性の方とは、佐賀の僧侶の方が持参したペーパークラフトを一緒に作って、お話しをさせていただきました。何気ない会話でも笑顔を出してもらえてよかったと思っております。 

  • 西滝寺訪問

 さて、冒頭でも触れました通り、皆さまからお預かりした義援金を西滝寺へ届けることが、目的の一つでした。二日目の夕刻、大洲市内の避難所を数か所訪れた後、大洲市の中心部より車で十五分ほどのところにある西滝寺を訪問いたしました。JR予讃線の白滝駅の目の前にある西滝寺は、少しだけ高台にあり、浸水被害は免れたものの、目の前の白滝駅までは浸水したとご住職より説明を受けました。当時のお話しを詳しくお聴きすることができ、今回の被害の大きさを再確認させていただきました。副住職の福村さんは、近隣の住宅の泥かきをはじめ、少し離れた場所にあるお寺様からの要請で、そのお寺様のお檀家さまの被害にあった家財道具の運びだしなどを精力的に行った模様です。今回持参した義援金で、少しでもお役に立てればと皆さまの思いも含めて、お渡しさせていただきました。その際、やはり「水」が一番の心配だったと、ご住職がお話しされたことは、命をつなぐ「水」、ストレスを軽減させる「水」について、真剣に考えなくてはならないと改めて胸に刻みました。

 私自身、東北大震災から始まり、熊本地震、そして今回の西日本豪雨の災害の場所に入り、それぞれの場所で少なからず災害支援を行ってまいりました。その経験からこの場を借りて、皆さまにお伝えしたいことがあります。

①災害は何時何処で起こるかは、分りません。遠い地で起こったこととはいえ、まずは関心を持って下さい。

②関心を持つと同時に、これは「私にも起こることだ」と強く認識して下さい。多くの方は、「まさか、自分の身に起こるとは」と口にされます。

③発災したら、まずは自身の命のことを考えて下さい。隣の人や自分以外の人のことではなく、まずは「自分の身」です。

④そのためにも、必要最低限の水は常日頃から確保しておいて下さい。飲料水と生活用水は分けてもいいです。

⑤自身の命が確保されたら、周りの状況を見て、困っている人がいたら助けてあげてください。

⑥発災後の対応は、行政の単位(市区町村)で大きく違います。ご自身の行政の災害対策(ハザードマップや避難所等)を確認しておいて下さい。特に市町村合併をした地区にお住いの方は、行政範囲が大きくなっており、支援に不具合が生じている場合が多くあります。

 以上簡単ではありますが、注意点などを列記しました。ご参考にしていただけたらと存じます。

 西日本豪雨災害からの復興はこれからです。被災者は九月以降、仮設住宅での生活が始まります。生活再建もこれからです。今後もぜひ関心をもって注視していただきたいと思います。

涼仁拝

 

2018年09月11日

文由閣だより

@文由閣 vol.8

旅の最後にたどり着いた場所は

 

 朝日新聞の日曜版に別冊で折りこまれる「GLOBE」五月六日版を捲ると、懐かしい風景写真が掲載されていた。約二十年前に訪れたことがあるその場所は、今でも私の心の片隅にひっそりと佇んでいる。以前、この萬亀誌上にも書いたことがあると記憶しているが、改めて思い返すことにしてみたい。

 スペインとフランスの国境、そのスペイン側にポルボウという町がある。その町はずれ、地中海を見下ろす小さな共同墓地の一角に、ユダヤ人でありドイツ国籍の哲学者、ヴォルター・ベンヤミンの記念碑がある。現代彫刻家のダニ・カラヴァン製作の記念碑は、「パサージュ」と名付けられているが、その記念碑には、ベンヤミン著の『歴史の概念について』から、「名もなき者たちの記憶に敬意を表することは、有名な者たちや誉め称えられた者たちの記憶に敬意を表するよりもずっと難しい。歴史的な構築は、名もなき者たちの記憶に捧げられているのだ」、という文章が刻まれている。

ベンヤミンは、一九四〇年六月、亡命していたパリを脱出し、南へと逃げながらマルセイユ経由でスペインへ密入国しようとしていた。しかしスペイン側より入国を拒否され、決意してこの地で自殺を計り、翌日死去する。現在は記念碑脇の共同墓地に眠っている。その場所にカラヴァンが記念碑を制作した経緯は省くが、カラヴァン自身、この地で「死」の絶対性に対峙したのは間違いない。ベンヤミンが人生をともにしてきたもの、それはつまり「名もなき者たちの記憶」そのものと次々別れ、最後はその記憶を有する自分自身も死ななければならなかったという事実、そこに向き合い、「歴史的な構築は、名もなき者たちの記憶」を留めるための作品が、この「パサージュ ヴォルターベンヤミンへのオマージュ」だと言える。

私はこの地に来ることの他、もう一か所、行くべきところがあった。それが、「GLOBE」紙上に掲載されていた場所。バルセロナからブリュッセル経由でノルウェーのオスロに入り、フィヨルドを眺めた足で向かった先が、スウェーデンの首都、ストックホルムだった。ここに「スコーグスシェルコゴーデン」、別名「森の葬祭場」という場所がある。旅の最後にたどり着いた場所は、正しくここであった。この墓地はストックホルムの人口急増に伴う墓地拡張の必要性から、二十世紀初頭、既存の市営墓地の隣接地を国際設計競技によって開発するという画期的な事業として進められた。結果五十二の案から選ばれたのが、アスプルンドとレヴェレンツという二人の若い建築家の案であった。建設開始から約百年の現在も多くの死者が眠りについている。一九九四年にはユネスコの世界遺産にも登録されている。

さて、この墓地の特徴は大変美しい樹林墓苑であることは間違いないのだが、もう一つ大変特徴的なものが、「ミンネスルンド」、「追憶の杜」と訳される半世紀以上前から法的に認めれている匿名の共同墓地である。「GLOBE」より抜粋させていただくと、「そこにあるのは何の変哲もない、小高い丘。頂上へ続く小道の登り口に小さな標識が立っているだけだ。どこに祈ればいいのかわからない。これまでに七万人以上の遺灰が埋葬され、この墓地で火葬される人の半数がここに入ることを望むという。だが、どうしても墓と思えなかった。〈一体、何を感じればいいのか?〉。私は虚脱感に襲われた」と記者は記している。そして「旅の最終地にスウェーデンを選んだのは、このミンネスルンドが見たかったからだった。死後は家族関係を超え、平等の共同の世界へ――そんな哲学を掲げる墓は少子高齢社会が行き着く先、まさに進化形かもしれないと想像した」と続けている。二十年前の私の旅の最後も、この場所だった。そして記者が進化形と呼んでいる、死後は家族関係を超え、平等の世界へ、という部分はまさに東長寺の縁の会、結の会の思想とリンクしている。ミンネスルンドには、天涯孤独な人や、家族が遠くに離れて暮らす単身者のほか、子供や親戚に迷惑をかけたくない人も多く埋葬されている。それはまさに東長寺のスタイルそのものと言ってよい。しかしスウェーデンの場合は、国の責任として火葬や埋葬を行っているところが大きな違いではあるだが。そしてこの匿名の墓地は、今では全国数百か所に設置されており、今も増加傾向にあるという。しかしここ数年で人気が出ているのが、故人名を刻んだプレートを掲げられる共同墓地らしい。遺灰が埋められた場所にプレートを置くことで、「故人との接点や関係性を確認できるシンボル」として、認識されているようだ。これは千葉の真光寺や、気仙沼の清凉院で展開されている樹林葬墓苑と全く同じと言える。東長寺は地方の寺院の協力を得ながら、先進的な埋葬空間を提供していることが改めて確認できた。

 ベンヤミンの記念碑も、そしてミンネスルンドもそこには、「名もなき者(=匿名)たちの記憶」がテーマになっている。私たちが生きてきた記憶を、どのような形で紡いでいくのか。それは遺ったものがそれぞれに考えることではあるのだが、日本の場合は供養の在り方、埋葬の方法などは積極的に、寺院が提案することの必要性を強く思う記事であった。

涼仁拝

参考文献

・朝日新聞 平成三十年五月六日 別冊「GLOVE

葬送 世界のお墓で考える 高橋美佐子(文化くらし報道部記者)

・ランドスケープ批評宣言 INAX出版 記念碑としてのランドスケープ 手島二郎

・建築文化 二〇〇〇年十一号 特集ランドスケープ ‘80年代以降の現代ランドスケープの試み’ パサージュ ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ 手島二郎

 

2018年09月11日

文由閣だより

@文由閣 vol.7

里山の中の窯

国道202号線は、福岡県福岡市から佐賀県北部を経由して長崎県長崎市へ至る、全長246.8㎞の一般国道である。そのほとんどは片側一車線、対面二車線の何の変哲もないただの田舎の道である。私はその道を子供の頃、父の運転する車でよく通っていた。長崎市内に住んでいた私は、長期の休みがある度に福岡にいる祖母に会いに行っていた。そしてその当時、長崎まで開通している高速道路がなかったため、いわゆる下道で長崎と福岡の往復をしていた。そして時々、その往復の道中、寄り道をしていたのを記憶している。それは母がその街道沿いにある「茶碗屋さん」に寄っていたためである。

国道202号線のルート上には、北部九州を代表する窯場が点在している。福岡を始点とすると、唐津、伊万里、有田、波佐見、そして三河内。それぞれ陶器、磁器の特徴を持つ、日本を代表する窯場だ。その当時の私は、そんな焼き物にはもちろん興味はなく、昼ご飯かすれ違う車の車種にしか興味がなかったから、その時間は退屈だったはずだ。そうであっても私は、今でもこの202号線が大好きなのである。

 文由閣竣工の前より、佐賀に行くことが多くなり、その地の伝統工芸品を眺める機会も多くなった。そんなある日、文由閣に協力して頂いた手漉き和紙職人の前田さんより、唐津の「隆太窯」をご紹介いただいた。隆太窯は、人間国宝である第12代中里太郎右衛門の五男である、中里隆さんと息子さんの中里太亀さんの窯である。二人の名前から「隆太窯」と名付けたらしい。

窯は、唐津市街から少し離れた丘陵地にあり、周りは棚田が広がるいわゆる里山という名にふさわしい環境だ。道路から窯の建物は見えず、「人里離れた」という表現がぴったりだ。桃源郷とはいいすぎだが、ここでは静かな優しい時間が流れている。川から引いた水路があり、建物がいくつか点在している。人の姿が見えなかったので、少し奥まで進んでいくと、開け放たれた倉庫みたいなところに焼物が展示してあった。幾分か眺めていると外を人が通ったので、見学に来たと声をかけたが、「どうぞ」という軽い感じの挨拶しかなく、また静寂が訪れた。なんと自由な場所なんだろうと思っていると、向かいの建物からスタッフらしい女性が顔を出し、「よかったらお茶をどうぞ」と声をかけられ、水路にかかっている小さな橋を渡り、建物に上がらせて頂いた。そこは小さなギャラリーとなっており、中里親子の作品が並べられていた。唐津七山の和紙職人、前田さんの紹介で来たことを告げ、お茶を頂いた。小さめの粉引の茶碗で淹れられたお茶は、口当たりがよく、さわやかな風を運んでくれた。「どうぞ工場も見てください」と案内されたところは、轆轤が四台設置されてある場所で、「ここでバロックを聞きながら回してるんですよ」と言われて見回すと、大層なオーディオセットが設置されていた。「里山の中で、バロック聞きながら、土を捏ね、轆轤を回し、そして火の中に」。なんと贅沢な、という表現しか出来ない自分が情けなく自己嫌悪になりながらも、自然の光あふれるその空間が、ただ好きだ、ということを感じることができたのはよかった、そんな一日を過ごすことができた。それから隆太窯には4回訪れている。何回行ってもそこには、やさしい時間が流れている、そしていつも「茶碗好き」だった亡くなった母を連れてきたい、と思う。

波佐見は唐津より南、伊万里と有田を経由して202号線を少し外れるところにある。北側は有田と接しているが、有田は佐賀県、波佐見は長崎県に属す。波佐見焼は、磁器であり、普段使いの食器として特に若い世代に人気がある。しょうゆさしで一躍有名になった「白山陶器」や、確かなデザイン力で波佐見焼を全国ブランドに押し上げた「マルヒロ」など、現在は当地に行かなくても東京に直営やセレクトのショップで購入できるようになった。それでもやはり、当地で実際に窯元を訪れて、製作現場を見、そこで取れた材料やこの地域の水や空気を感じることは、大切なことだと感じている。

波佐見を訪れたのは、1月、北部九州に大雪が降った一週間後のことだった。前述の隆太窯からレンタカーで波佐見を目指す。波佐見の窯元は、いくつかの山襞に点在しているが、それらの製品は「波佐見町陶芸の館 観光交流センター」でも購入できるようになっている。まずはこのセンターでどんな窯元があるのか、その窯元の特徴をざっと眺めてみる。波佐見焼は高級品ではなく、日常の食卓に並ぶ食器のため、その形などはシンプルになっている。手になじむ大きさであり、そして色遣いもごくごくシンプル。その中でも窯元によって、外部のデザイナーと組むなどしてオリジナルブランドを立ち上げており、それぞれの特徴があるのがおもしろい。私はその中から西海陶器のショップに行くことにした。お目当ては「そば猪口」。 そば猪口は様々な用途に使いやすい。そのそば猪口を物色している時、形のいい湯呑茶碗に目が留まった。現在文由閣で使用している湯呑も、波佐見焼。そろそろ変えてもいい時期かもしれない。そんな風に思いながら、またそば猪口探しに戻っていった。

国道202号線。私にとって、子供のころの記憶と現在が結びつき、大切な場所である。そしてそれは、両親との思い出にも繋がっている。今、唐津焼や波佐見焼が好きなのは、そんな両親のことを少しでも感じていたい、そんな心の表出かもしれない。

涼仁拝

2018年03月12日

文由閣だより

@文由閣 vol.6

遠くから波の音が聞こえてくる ~東北参拝旅行を終えて~

 通い慣れている国道でも視線の高さが違ってくると、その風景の移り変わりは、初めて見る風景に見えるから不思議だ。路面からだいぶ離れた大型バスから見える景色は、気仙沼本吉の日常とは、ちょっと違う見え方をした。そしてこの夏、子供たちと入った海も同じ静かな波を湛えながらも、少し違って見えた。

国道45号線、仙台市から三陸海岸沿いを青森市まで至る総延長662.7㎞のこの国道から見える風景は、2011311日を境に激変した。あるところでは橋が落ち、あるところでは瓦礫に道を塞がれ、あるところでは土砂崩れで埋没した。私がこの道を東京から車を走らせて初めて通ったのは、2011531日、今でもグーグルカレンダーに記されている。それから幾度となく通った道。その道が今また、激変している。復興という名の元に。

  人の記憶に根差したものの中に、「道」がある。それも大きな比重を占めている。私の場合は、学校までの通学路。ほぼ毎日通った道は、40年近く経った今でも色褪せない。当然その記憶の姿は当時の風景のままである。店の名前、信号機の場所、家の形、そして長崎に住んでいた私の場合は、それらと相まって坂の勾配が一番の思い出となっている。高校の前の坂をみんな「地獄坂」と呼んでいた。もちろん、私の記憶の道の風景は、実際には徐々に様変わりしているだろう。一昨年、久しぶりに帰省した時に通った道は、子供時代にはなかった道だった。だから風景は変わるのは当然だろう。私にとってそれは唐突だったが、地元に住んでいた者からすれば、それは予定された風景の変化であろう。

  東北沿岸部を縦断する国道45号線も、そこに住む人たちの日常の記憶が充満していたはずだ。通学の子どもたちいて、通勤する大人たちがいる。夏休みには国道沿道の海岸に、各地から海水浴客が向かった。国道と平行して海が見え隠れしながら走る鉄道も、それぞれの日常を抱えた人たちが乗車していた。しかし突然、津波によってその日常の風景が、それこそ日常と共に奪い去られてしまった。それから6年、国道は一見、昔の姿に戻ったかのように、正確には復旧したように見える。しかしそこは、何台もの大型トラックが土を満載して走る国道に変わり、橋は架け替えられ、所々路面がうねり、そして嵩上げによって国道の高さが変わってしまったところもある。列車も走らなくなり、むかし線路があった場所は線路が取り払われ、BRT(バス高速輸送システム)のためのアスファルト舗装になってしまった。そして、海が見えなくなってしまった。そう、風景が変わってしまったのである。子どもたちは傍に海があるのに入ることを許されず、大人たちは、その海を防潮堤と呼ぶ巨大構造物によって覆い隠している。これから生まれてくる子供たちは、この防潮堤の姿を日常の風景と認識するのである。今回の檀信徒参拝旅行では、私たちはそのことに注意を向けるべきであり、そして少しでもそれを和らげることを考えていくべきだと強く思った旅となった。

壁がどんなに高くなろうとも穏やかな海からは、遠くから波の音が聞こえてくる。私はきっとこの地が好きなんだと思う。そんな場所に、寄り添いたいと思う。

涼仁拝

2017年12月21日

文由閣だより

@文由閣 vol.5

夏の記憶

 長崎で育った私にとっての夏の記憶は、海のきらめきと8月9日に市内に響くわたるサイレンの音、そして蚊帳の中を流れるゆったりとした涼風といえる。小さい頃は、よく父に連れられて海水浴に行った。そして中学生以降は、友達同士でバスに揺られ、家からだいぶ離れた野母崎まで出かけた。野母崎に隣接している脇岬海水浴場は長崎半島の南端に位置し、僕たちにとっては夏の思い出の場所の一つだ。部活の早朝練習の後、小さなバッグに水着とバスタオルだけ入れて、向かえばそこは天国だ。ひと泳ぎした後は、早起きした分の時間を取り戻すように、砂浜で眠りに落ちた。その頃は日焼けを心配することは皆無だったので、砂浜にそのまま横たわり、タオルを顔にかけてジリジリ照りつける太陽をまともに受けても平気だった。時折女の子の嬌声が聞こえると目蓋を開けて、横目でチラリと確認などしたが、そんなことより眠さの方が勝っていたのか、それとも声をかける勇気がなかったのか、判然とはしない頭でまたもや眠りについた。そこでの友人との会話がどんなものだったのか、あまり記憶にないが、それはたわいもない事であることは間違いあるまい。今後の人生に待ち受けている、厳しさや苦しさなど、そんなことを心配することもない穏やかな時間が流れていた。海の家を借りるお金もないので、トイレ横に設置してある冷水シャワーを浴びて砂と海水だけを洗い流し、水着を着替えもせず、短パンだけ掃いてTシャツを着れば、これで帰り支度は終了。帰りのバスの時間を待つ間、瓶のコカ・コーラをみんなで回し飲みして、バスに乗るやみんなで終点まで爆睡する、そんなことが日常に繰り広げられていた。

 8月9日は、登校日だった。長崎市内の小中高校はみんなそうだったと思う。11時2分には市内中に響くわたるサイレンで、1分間の黙祷を捧げた。私にとってこれは当たり前だった。今でも9日になると、「あ、9日だ」と思い至る。長崎で育った私の一つの原点だと、今でも思っている。

 私が生まれ育った家にはクーラーがなかった。夏は全部の窓を開け放ち、扇風機を回していた。当然、蚊が入ってくるので、いつも蚊取り線香を焚いていた。グルグル巻きの蚊取り線香のあの香りも夏の記憶の一つだろう。夜は蚊帳を吊り、家族全員で寝ていた。母からは蚊帳に入るとき必ず、「シュっと入りなさい」と言われ続けていた。今、蚊帳を吊る家が東京にあるのだろうか? 若い人たちは、蚊帳自体を知らないのであろう。窓を開け放って寝るなんて、なんて平和だったんだろうか。

 昭和40年代から50年代の片田舎のそんな夏の記憶が思い出されたのには、ちょっとした理由がある。7月24日より3泊4日で東京の子どもたちを東日本大震災の被害があった気仙沼に連れて行き、地元の子どもたちとの交流イベントに参加したからだ。今年で2回目となる今回は、地元の子どもたちと併せて総勢23名のキャンプを行うことが、大きな目的となっている。

 東京からは、小学4年生男女3名と、2年生の1名の計4名(引率者2名)で、24日新幹線で一ノ関まで向かい、車で気仙沼市内に向った。到着初日は、大雨にあったが、2日目からは晴天に恵まれた。自分たちのことは自分たちでを基本に、昼食の準備など親元を離れた子供たちは、地元NPO法人「浜わらす」のプログラムに参加し、田んぼの草取りや沢あそびなど、普段東京では体験することができない「田舎」のを満喫していた。

 3日目はメインイベントである地元の子どもたちとのキャンプだ。朝から協力してテント(4張)を張ったり、火起こしから始まる昼食の準備に取り掛かったりでてんやわんやの大騒ぎが続いた。火起こしは、なんと地元の女の子が「虫眼鏡」で、火を起こしたではないか。理科の実験さながらの出来事で、みんな大喜びだった。おいしくカレーを食べた後は、いよいよみんな海に出かけて海遊びをするイベントだ。「浜わらす」の大きな活動の趣旨として、「海にくらす子供たちを、海に取り戻す」というのがある。震災以来、物理的にも精神的にも海に近づくことができない状態になってしまった。そんな子供たちが本当の海の楽しさ、そして厳しさを学ぶ場としての活動が、この「浜わらす」の活動と言える。約40分かけて海にたどり着いた。これも震災の教訓で、車に乗らずに自分の足で歩くことにより、海との距離を体感することができるようになる。ライフジャケットを着て、いよいよ海に入りだした子供たちは、その冷たさにまずは驚く。東北の海はやはり冷たいのだ。ライフジャケットを来たままなので、基本「浮く」のだが、これが怖い子供たちもいて「浮く」練習から始める。海の中では海の楽しさを学ぶ。ここはプールではないのである。波はあるし、その波も一定ではない。そのようなことを「体験」として学んでいく。集団での学習が終了すると、あとは自由時間。ハンドボードと呼ばれる、小型のボードで波に乗る子、大人とじゃれあう子、ひたすら泳いでいる子など様々で、有意義な時間を子供たちは過ごしていた。そして終わる時間が来ると、「まだ、いたーい」という合唱が始まるが、時間厳守も重要な約束事。みんな海水をタンクからの真水で洗い流して、そのままの格好で来た道を帰っていった。そして東京の子どもたちと地元の子どもたちが一緒になって、歌を大声で歌いながら未だにある仮設住宅の横を歩いている姿を見て、少しは心の交流があったかなの実感することができた。そして、その時、そういえば私も子供時代、シチュエーションは違えでもこんな風にして、水着を着たまま家に帰っていたなと、ふと思い出した。

 子供時代の夏の記憶が、他の季節の記憶よりも鮮明に覚えているのは何故だろう。現代の子どもたちも、それは同じなのだろうか。子どもたちがテントの中で何を語り合ったのか、それは聞いていない。でも子供たちは、何かを話しているはずだ。それはきっとたわいもない事であるのは間違いない、私自身がそうだったように。でも、それが夏の記憶となっていくのだろう。

涼仁拝

2017年09月06日

文由閣だより

@文由閣 vol.4

余白の効用

 文由閣の周囲には、在来種を植え付けているマット状の緑地帯があり、二年目の冬を迎える昨年の十一月には、大胆に刈り込みを行った。当然、冬の間は枯れており、また落葉広葉樹であるモミジ類も葉を落としている。仕事をしている手を休め、ふと見上げた先には、自動車の走り去る姿を目に留め、また時々道行く人と視線が交差する。大きなガラス窓から差し込み西日の暖かさに助けられた日も幾日かありはしたが、普通は冬の曇天と同じく、色合いが少ない風景が広がっている。目につく色合いと云えば、信号が変わる時の青と赤と黄色、そして煉瓦色をした本院の奥に壁のように聳え立つマンションの外壁だけである。

 冬が過ぎ、出勤途中に目にした新宿南口に新しく植えられたソメイヨシノが満開の花びらをつけた、季節外れの暖かさが幾日が続いたある日、文由閣の周りでもちょっとした変化が現れていた。風に飛ばされたのか、それとも誰かが捨てたのか、菓子パンの袋の脇に小さな緑色の芽が出ていたのだ。本院のシダレザクラの蕾もまだ膨らんでいない季節だったので、少しばかり狼狽したが、それよりも今年も芽が出るかどうか心配していた頃合いだったので、まずはそっと胸を撫で下ろした。それは一年目の夏はとにかく水撒きに精を出し、枯れないように愛情を降り注いだが、二年目の夏は専門家からのアドバイスのもと、水撒きをほぼしない状態だったからである。それが如実に現れたのが、文由閣二階に設置しているプランターに植えられた植物達だった。そこには入口の左右に同じ大きさのプランターを置いたのだが、屋根の影響で雨が吹き込む側と吹き込まない側に分かれてしまい、結果一方が枯れてしまったのである。現在はプランターだけが放置されている状態になっている。そんなこともあり、芽が出るか、それとも枯れてしまい芽が出ないのか心配していたのである。

 街のいたる所のサクラ類も大きな呼吸をするようにできるだけ大輪の花をつけ、それでもあっという間に散っていく間も、モミジの葉はやっと枝の先々から現れ始めた程度であった。文由閣に植えられているモミジ類は、イロハモミジ、コハウチワカエデ、ノムラモミジの三種が植わっている。もとともは福島県石川町の種苗から運んだものであるが、その広大な種苗の中の場所も違えば、土壌も違い、それぞれの樹木の特性もあり、先天的な違いがまずはある。そして文由閣に植えられてからは日照、雨量、排気ガスの影響などの後天的影響がある。それら先天的、後天的な影響の組み合わせで今のモミジが成長しているのある。だからこそ当然、葉をつける時期も違えば色合いも違い、また成長スピードも違う訳で、植物を愛でる醍醐味は実はこのようなものだろうと一人合点するのである。

 そして季節は五月、現在はどの樹木もそしてマット状の在来種も葉を付けて、ジャングル状態になってしまっているではないか。あれだけ芽が出るのが恋しくて、葉が出てきたときの感動はどこへ行ったのか。歩道に大きくはみ出しているモミジの枝が通行人の邪魔になっているのではないかと心配し、またこれはあきらめるしかないのであるが、非常に強い外来種が在来種を駆逐するのではないかと心配している状態である。「冬の枯れている状態が恋しい」とは言わないが、人間の、いやいや自分自身の短絡的な気持ちの変化にただただ嫌気がしているだけだというのが正直なところである。

 そこで試しに、一、二本の枝を落とし、枯れている茎を取り除き、認識できる範囲の外来種を根ごと除去し、自らの席に着く。そうしてその場所を一目見、二目見ると除去した前との印象がだいぶ変わっていることに気付くのである。そうすると他の場所も触りたくなってくる。比較的曇り空の日を選んで、汗をかくこと半日、それなりの姿になってくるではないか。高いところと決断ができない場所は専門家に任せるとして、自分なりの「手入れ」を終わらせて気づいたこと、それは「余白」のことである。もしかしたら「余裕」ということにも通じるのかもしれない。物事、どんなものでも目一杯にしてしまい満足している風潮が、特に最近は多いのでないか。例えばスマホ。電車の中でも歩いていても、スマホを触り、見て、音楽を聴いている。スマホを見ている時の視界は、ほぼスマホの大きさである。その周辺にある物、起きている状況が見えず、またイヤホンをしていると同じ状況となる。それは「余白がない」ということができないだろうか。そして「余裕がない」ということに発展するのではないだろうか。周りが見えない、そして聴こえない。もしそれが現代社会だと、割り切って肯定するのは簡単だが、その「余裕のなさ」がもしかしたら様々な事象に少なからず影響しているのであれば、文由閣の周りの植物同様、ちょっとした手入れが必要だと、大きな窓ガラスを見ながら考える。そしてその効用が何かと問われたら、それはちょっとした気持ちの変化としか答えられない自分がいる。あるミュージシャンがラジオで云っていた言葉をふと思い出す。「スマホを忘れてしまったある日。ふと電車の窓ガラスを見ていると、きれいな夕陽が西の空に静かに沈むところだった。夕陽を見たのはどれくらい昔だっただろう」と。

涼仁拝

2017年07月04日

文由閣だより

@文由閣 vol.3

昨年の4月より9月まで、檀信徒の方々と曹洞宗の根本経典の一つである『修証義』を読み進めました。『修証義』は、曹洞宗の開祖、道元禅師の著された『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです。よってそこに収められている内容は、歴代のお釈迦様をはじめとする歴代の祖師方が語ったこと、並びに道元自身の解釈などが存分に含まれています。『修証義』の総序はこのような文言から始まります。「生を明らめ死を明むるは 仏家一大事の因縁なり(人の生と死の因縁を覚るのは、すべての仏道修行者にとっての一大事である)」。

人間は生まれた瞬間から、死に向かう一方通行の旅に出ています。これは厳然とした事実です。お釈迦様はこの事実に対して、まずは知っておきましょう、と言っておられます。「“生と死”の中に仏の真理があるから、“生と死”を選り好みすることはありません」。人は、「私は、このお父さんとこのお母さんから生まれてきたい、あるいは何歳で死にたい」という希望は叶えられません。でも誰しも何時までも元気でいたいとか、死にたくない、と思ってしまいます。いやそうではなくて、「そのようなものから逃げ出さずに、でもそれを“覚り”とも思わず、ただただ“生と死”が、かけがえのないご縁であると腹を据えていきたいものであります」となるのです。人の“生”は、両親の“縁”から生まれたものです。まずはそのご縁に感謝するともに、そこから様々な生き物(動物、魚、野菜、穀物など)とのご縁によって、私たちは活かされています。新年にあたり、今一度「生を明らめ死を明むる」ということを素直に考えていけたらと思った次第です。

皆様良い一年でありますように、ご祈念申し上げます。涼仁拝

2017年01月08日

文由閣だより

@文由閣 vol.2

この度、『美術手帖』2016年11号の「ZEN特集」に東長寺の活動が紹介されました。東長寺は、1989(平成元)年、開創400年記念事業として、新伽藍を建立いたしました。禅宗の伽藍配置にならい、7つのお堂が適所に配置され、現代建築の合理性と歴史的な寺院建築の落着きをあわせ持つ寺となりました。この計画にあたっては、「現代の寺、都市の寺」であることをふまえ、人が集い、仏教にふれる場となることを念頭におきました。そこで人々が集まる場として設けた講堂は、竣工以来、現代美術を中心とする展示で、海外の作家を含め、これまでにない多数の意欲的な作家を紹介して参りました。現在ではこの講堂は、永代供養付き個人墓の納骨堂として生まれ変わっておりますが、新伽藍建立以来、「お寺は文化の発信地」という考えは、今でも当山運営のコンセプトの柱となっております。

昨年2016(平成27)年、伽藍の道向かいに建立した檀信徒会館は、『「文」化の「由」縁になる』ことを願い「文由閣」、命名しました。様々な建築上の工夫を凝らしましたが、これは「近代技術による伝統様式の追求」をテーマに建設いたしました。それは建物工事に留まらず、天蓋や鏧子(けいす)、五具足(ごぐそく)などの仏具などもこのテーマに沿っています。

「寺院も建物も工芸も、その伝統をそのまま引き継ぐのではなく時代の移り変わりによって新たな解釈を加えていくべきだ」という当山住職の思いを、日々の私たちの活動の中心においています。涼仁拝

2016年10月17日

文由閣だより

@文由閣 vol.1

東長寺では現在、檀信徒向けに「葬儀説明会」を開催しております。既に24回を数えますが、葬儀への関心が非常に高いように感じられます。ご自身が亡くなられたらどうするのか、ご家族のどなたかが亡くなられたらどうするのか、様々な理由があろうかと思いますが、一番は、「葬儀は自分ではどうすることもできない」ということが根本にあるのではないでしょうか。

ご自身が亡くなった後、火葬を含む葬儀全体は、遺族(家族とは限りません)が執り行わなくてはなりません。自分自身が歩いて火葬場に行けるわけでもない、自分で僧侶に頼むことができるのでもない、そんなある種「人任せ」の部分が不安で、心配なのだと思います。それに実際にかかる費用の心配もあるでしょう。

そして最後は誰も知らない世界に行かなくてはならない、それこそ「不安」がある訳です。「不安」は、「安らかではない」ということです。ではその「不安」をどのように取り除いていくのか、それが僧侶に期待される部分かと日頃から考えています。僧侶は、死後のことは語れません。何故なら私自身行ったこともないですし、経験体験したこともないからです。さらに云えば、死を間近に感じたこともありません。よって僧侶というものは、その部分を期待されながら、なかなか対応できないというもどかしさがあるのです。ただできることは、少しでも寄り添い、話しを聞いてあげること。私は出来得る限り、そのような僧侶になりたいと思っています。涼仁拝

2016年09月17日